自由帳(無地)

ぶんしょうをかくのがとてもへたです。

みんな一度は考えるあれ

今週のお題「ちょっとした夢」

 

宝くじで一等を当てる事が夢です。

多分、このお題で同じような夢を書いてる人が私を含めて百人はいると思います。

だって誰だって、何の苦労もなく、かつ非課税で大金が欲しいでしょ?

どんなに希死念慮が恋人な私でも、さすがに3億とか6億を宝くじで当てたら人が変わったように明るくなると思うんですよね。

当たった途端「全ての出会いに感謝!生きているって素晴らしい!」とか言い出すかもしれません。

私がそんな寝ぼけた事を言い出したら宝くじが当たったと思ってください。

 

ウキウキで宝くじを買った後、結果発表までの期間を「もし当たったら」の妄想で過ごしていると、自分が本当は何をしたいのか、何が欲しいのかがよくわかる気がするんですよね。

そして「お金がないから」という理由でできない事、買えない物って結構あるんだなぁと実感させられますね。

私は同世代と比べたら比較的お金に余裕はある方に入るんですが、それでも我慢してるところがあるんだなと思い知らされます。

勿論、欲しいもの、やりたい事の中には「努力次第で手に入るもの」もありますが、血反吐を吐いて努力してまで欲しい物ではなく、降って湧いたお金で「手に入れたい」んですよね(ダメな思考)

だから大金が手に入ったらまずは長年指を咥えて見ていた「欲しかった」物を全て買いに行ってこれまで自分が味わった苦労を自分で労いつつ、住環境の整備にお金を使って、残ったお金は働けなくなった時の為にとっておきたいですね。

 

小さな夢どころか「大きな欲望」ですが、皆さんは私と同じ夢、見た事ありますか?

 

This is 「無価値」

私の誕生日が近くなると、ありがたい事に遠方に住む両親・親戚から毎年誕生日プレゼントが送られてきます。

自分が産まれた日を祝ってくれる人の存在というのはありがたい物で、貰ったものは喜んで受け取らないといけないわけですが、このありがた〜い誕生日プレゼントを開封する度に「私と言うのはどうでもいい存在なんだな」と思わされて死にたくなります。

大げさだなぁと思う人は最後まで文章を読んでいって欲しいです。

 

私の記憶が正しい限り、私の両親、親戚は私に誕生日プレゼントをちゃんとくれた事がありませんでした。

意外と知られてないかもしれませんが、誕生日プレゼントって「普段相手の事をどれだけ見てるか・考えているか・知っているか」が露骨に出ると思うんですよね。

私の周りの人は良くも悪くも「探り」をいれて何を贈るか考えるのが苦手な人が多いので、ストレートに「何が欲しい?」と聞いてきますが、これは苦手なりにちゃんと相手の事を考えてるからできるのだと思うんですよね。

私の両親・身内は何が酷いかというと、「この娘は何が好きなのか?」「最近何にハマっているのか?」等を一切考慮せず、自分が贈りたいものを贈るんですよね。

その自分が贈りたいものがまだ新品未開封とかなら救いがあったかもしれませんが、中には中古品とかが入っているわけです。

これにまだ気が付かない小学生とかだったら誤魔化しは効いたと思いますが、中学生にもなると薄々「これ私全然好きじゃないな」とか「これ中古品だよね?」とか思ってしまう訳です。

勿論、私も人の心を捨てては居ないのでその場では「嬉しい!ありがとう!」と言いますし、「人がわざわざ贈って貰ったものにケチをつけるなんて私は酷いヤツだ。」と自分を責めたりもしました。

でも流石に成人した当たりで、「あ、この人達は私の事なんかどうでもいいんだ。」と気がつくようになりました。

私の親は私の話を一切聞かない上に意見も聞き入れてくれなかったんですが、そういう「人の話を聞かない」「相手の意見を尊重しない」ところが誕生日プレゼントの選定の仕方に露骨に出ているんですよね。

風俗嬢にコンビニスイーツを差し入れする客と一緒で、相手がどんな人間かに興味はなくて、「何かをプレゼントした」という事実だけで自分に酔いたいだけの、言わば自慰行為なんですよね。

誰かセカンド◯トリートとかオ◯ハウスの雑貨コーナーにありそうな、埃を被った化粧品が欲しいと思うんですかね?

毎年こんなゴミを贈り続けられると私は何て思うかと言うと、「私はゴミの最終処分場か何か?」と思ってしまうんですよね。

誕生日プレゼントごときでメソメソ言うなよとか言われそうですが、これ毎年、しかも親だけではなく親戚からもやられて見てください。

気が滅入ります。

(この手の話をすると「家計が厳しかったのでは?」と言われそうですが、親は年収一千万以上稼いでいた上に、自分の趣味にはお金をかけていたので、余計ムカつきましたね。ちなみに何が欲しいとか伝えてもこの調子で、中古品何か嫌だと言おうもんなら殴られるので言えませんでした。)

だって自分の周りの友達は、その子が好きな化粧品をプレゼントして貰えたり、好きなゲームを貰ったり、趣味の本を買って貰ったり、焼き肉に連れて行って貰えたり。

それぞれ「子供の事を考えた」誕生日を周りの大人が設定してるのに、私だけゴミみたいなものを大量に渡されて、あろうことかその日の主役が気を遣ってひきつり笑いを浮かべて「ありがとう」と言わされてるんですよ?

これで自己肯定感高い女に成長したら逆に怖いまであると思いますけどね。

 

さてここまでボロカス言われるプレゼントは何かと言うと、

使いかけの化粧水、サイズ違いの服、既に開封した香水、何年か使った謎のハンカチ、賞味期限が切れた食料品etc

中身が微妙に違うだけで、毎回中身はこんなもんです。

メルカリにすら出せない物を送ってきて、「ありがとうは?」と強要される方の身にもなって欲しいです。

毎年こんなのが届くのも鬱なので、今年は一切の連絡を無視して「あんな奴に誕生日プレゼントなんかやらん!」と勝手にキレてくれるのを待ってましたがそれでも送りつけてきたので大概ですね。

ちなみに災害時に被災地に「賞味期限切れの食べ物」「季節外れの服」を送る人がいますが、多分うちの両親・親戚みたいな人達がやってるんだろうなと思います。

 

お前の自己満足に他人を巻き込むなよな、ボケが。

 

これが私が「私を無価値だと思う理由」です。いや、「無価値だと思わされた」理由です。

皆さん、周りの人の誕生日は「ちゃんと」お祝いしましょうね。

持たざる者の嘆き

前にも記事に少し書きましたが、私は人より優れている物が一つとしてないです。

本当に何の才能も特技もないです。

何にもないと言うだけあって顔も可愛くないし、スタイルも良くない。

そんな「何も持たない」私にとって、YouTubeというのは「何も持ってない自分を忘れる事ができる」希死念慮回避マシーンでした。

アイドルが歌って踊る所をぼんやり眺め、好きなYouTuberさんが旅をする様子を見て良いな〜楽しそうだなと思い、好きな音楽を聞いて散歩途中の気分を楽しくする。

令和に生きる若者らしいYouTubeの使い方だと思います。

そんな私が、最近気がついた悲しい事実をネチネチ言っても良いですか?

日々私を笑わせたり癒やしたりしてくれる画面の向こうの人達は、

私よりはるかに多くの才能、特技、環境に恵まれた「持っている」人だという事なんですよね。

「この人面白いな〜!」とひとしきり笑ったあとにそれにふと気が付く瞬間があって、その度に心の中を寒風が吹き抜けていく。

綺麗な人がメイクしている動画を見ながら、「これだけ元が綺麗だったらそらメイクも練習のしがいがあるよね。」と思ったときは自分の心根が暗すぎて悲しくなりました。

そしてYouTubeというのはたいてい広告がついているものですが、(私はYouTube Premiumに入っているので広告は見えません。)この広告が再生されるとYouTuberの収益になるわけです。

だいぶ卑屈な表現になりますが、持っている人は広告を見せるという形で、持っていない人から時間を奪う。

もっていない人がその人を応援するなら、下手したら時間だけではなくお金も奪われる訳です。

「持っている人はさらに与えられて豊かになる。持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」

このタラントンの例え話が文章そのままの意味で通用しそうなほどに、

今って「持つもの」が「もたないもの」から、無自覚に身ぐるみ剥がしにかかっているなぁと思ってしまいました。

ちなみこういう事を誰かに話すと、「何もなくても、あなたはあなたとして生きているのが素晴らしい!」とか言われますが、今はスマホを操作すれば1分もかからず素晴らしい才能に恵まれた人達をすぐに見ることができる時代なんですよね。

そんな環境に置かれているというのに、何にもできなくても生きてるだけで自分、素晴らしい!と思うことはできないですね。

そう言われて自信を持てる人って、そもそも「自意識過剰」という才能をお持ちだと思うので、その時点で私とは「何も無いレベル」が違うんですよ。

 

...と、正直ここまでネチネチ言っといてなんですが、この悲しい事実に気が付いたところでYouTubeを見るのは辞めないです。

何も持っていなさすぎて誰かの養分になることでしか、「この人を応援している」という事実でしか「何者か」になれないからです。

今推し活が流行っているのってそういう事だと思っているんですが、それは流石に卑屈な見方すぎるのかな?

 

私も他の人達みたいに何か一つ、輝くものがほしかったですね。

せめて「文章だけは上手く書ける」と言ってみたいですが、この調子だと来世に期待するしかなさそうです。

 

こんな長い嘆きに付き合ってくださってありがとうございました。

ぶんしょうりょく 

数年ぶりにブログで長い文章を書くようになってつくづく思うのは、学生の頃と比べたら文章力が著しく低下したなぁと...

自分が書いた文章をこうして毎日見ていると、嫌でもクオリティの低さを実感しますね。

学生の時は課題を初めとして長い文章を書かされる機会が多かったので意識しなくても文章力が鍛えられましたが、

大人になると意識をしない限り長い文章を書く機会はなくなってしまい、学生の時みたいに練習するような時間も生活に追われて中々とれない。

そうして危機感を覚えていたのにも関わらず、現実から逃げ続けた結果がこの有り様です。

私の書いたレポートを見て「天才だ!」と褒めてくれた大学の先輩と教授も、

今の私が書いた文章を見たら「頭でもぶつけたのか!?」と喫驚しそう。

正直そんなゴミのような自分の文章を読んでいると今すぐブログを削除して無かった事にしたくなりますが、

その衝動をぐっと堪えて逃げずに自分の文章に向き合いながら

「どうしたら良い文章が書けるのか」を勉強しつつ、来年位には誰が読んでも

「素晴らしい!この文章を書いた人は天才かもしれない!!」と言って貰えるような文章が書けるようになりたいですね。

 

とりあえず今は完璧主義を横に置いて「書き上げる事」を優先します。

来年には私の文章力、マシになっていると良いなぁ。

私は何故ODをしたのか

ODの話に多くのアクセスを頂きまして、ありがとうございます。

あの記事に書いた話は一番症状が酷かった時の話で、あれ以前にも以降にもOD自体は何回か経験がありましたが、文章が必要以上に長くなってしまうと読みづらいかと思い適当なところで話を切り上げてしまいました。

暗い話だし読まれないと思いましたが、他の記事よりアクセスが多かったので皆さんこの話に意外と興味があるんだと驚きました。

なので今日は「私は何故ODをしたのか」という部分を振り返りながら書こうと思います。

今これだけ社会で市販薬の過剰摂取が問題になっていると、皆さんが不思議に感じると思うのが「この人達は何故ODをしたのか?」だと思います。

これは正直、人に寄って変わると思いますのでここでは私の話だけをします。

それは「ODはリスカと違ってバレにくい上に確実に自分を傷めつけられる」からです。

リスカはどうしても傷跡が残って周りに気を遣われてしまいますが、ODは薬の空き箱・空きシートを処分すれば後は倒れてるところ、具合悪そうにしている所を見られさえしなければバレません。

「確実に自分を傷めつけられる」と言い切ってるけど本当か?と言われそうですが、

以前の記事にも書いたようにODをした場合絶対、100%、飲んだ薬の副作用に苦しめられます。死ぬにしても死なないにしても必ずです。

この副作用はどんな薬を飲んでも出ます。

薬によっては飲んですぐ症状がでない薬もありますが、地獄は必ず待ち受けています。

それがわかっていたとしても、正常な思考ができない時の私にとって静かに自分を傷つける事のできるODは、まさにうってつけの「罰」でした。

「こんな自分が生きていて良い訳がない。」

「悪いことをした人は裁きを受けなければならない」

「裁きを受けなければ許されない」

そんな強迫観念が、ODという手段を選んだのかもしれません。

「誰かに止められずに確実に自分を傷つけれなければ生きていて良いと思えない」

「その過程で地獄を味わい、死んだとしても構わない」

こう書き出すと、普通の人からしたら到底理解の難しい、支離滅裂にも思える考えだとは思います。

自分でも書いていて、皆さんにわかりやすく伝える為になんて表現したら良いか、リアルに頭を抱えています。

ただ一つ言えるのは、自分がどうなっても構わないと思っていたほど、

当時私が感じていた苦痛は大きいという事なので、その大きな苦痛から逃れる為に選んだのが、さらなる苦痛を与えて終わりに導く「OD」だったのかな、ということです。

リスカでは死ねないしね。

「なぜ、なぜ」を自分に問い続けながら書く文章は書いていて本当に辛くなりますが、こんなとこで終わりにしようと思います。

 

読みづらい文章に付き合ってくださってありがとうございました。

はやおきできない

お題「日常生活で苦手な事は?」

 

早寝早起きです。

もうこの出だしから社会生活不適合者感半端ないんですけど、本当にこれはできないです。

勿論早めに寝て朝起きて仕事をして夜帰ってくる生活をできない訳ではないです。

できなくはありませんが、一週間を乗り越えたあたりで絶対体調を崩すんですよね。

睡眠時間をしっかり確保していても体調を崩すので、諦めて仕事はできる限り夜からのシフトにするか、無理だったらそもそも出勤日数をガッツリ減らすかのどちらかで工夫しています。

以前、

「朝型か夜型かは遺伝」みたいな話がTwitterで流れていたのをちらっと見た事がありますが、もしあの説が正しいなら本来健康的とされている「朝に起きて昼働いて夜寝る」というサイクルが私の体には健康を害するサイクルになるのも納得がいきます。

朝活なんて、私には一生縁が無いですね。

 

明け方に寝て、昼間から夕方くらいに起きて、夜外を散歩がてら夕食を食べて、帰宅してお風呂に入って趣味の時間を始める、みたいな怠惰な生活を一生送ってたいですね。

そしてこんな理想の生活を毎日続けても困らないくらいお金がほしいですね〜。

 

道端に紙袋に入った12億円落ちてないかな?

まぁこんなん、

今日はもうネタ切れかと思いましたが、ふと思う事があったのでこれを纏めてから寝ようと思います。

 

私は物心ついた時から、「ああ自分は病気かもしれないな」と思うほど精神疾患の症状に悩まされてきました。

両親に「自分は病気だから病院に連れていってくれ。」と訴えても、「そんなのは気の所為だ」「病気のせいにして逃げようとするな」の一点張り。

結局私がメンタルクリニックを受診できたのは成人してからでした。

幸いにして受診して以降、数年をかけて大分症状は落ち着いてきました。

「それなら良かったじゃないか」と言われそうですが、それは投薬治療で社会生活を送る上で困る症状が表向き抑えられているだけで、表に出ない症状の苦労は誰も聞いてくれない。

そもそも表向きはマシになったといえ、私の心の中には「好きで病気になった訳じゃないのになんでこんな思いをしなければならないんだ!」という嘆きからくる希死念慮がずっとあるので、内心の荒れ具合は前とあまり変わりがないんですよね。

少しでも悩みを話したくてカウンセリングに行って話をしてもなーんか違う返答が返ってきて落胆させられて、勇気を出して友達に話をしてみても「わかるわかる、こっちも大変でさ〜」と自分の話にすり替えられて、「話すだけでも違うでしょ」と勝手に悩みが解消されたことにしてくる。

結局誰に話をしても私の悩みなんか真面目に聞いてはくれないので、「みんな私の悩みなんか聞きたくないんだな〜」と不貞腐れていました。

でもふとある日、ブログなら一人でずっと喋る事ができるじゃないか!と思ったんですよね。

そうブログならメンヘラの嘆きに邪魔が入らずに、気を遣う事もなく書き続ける事ができるわけなんですよ。

誰も私の悩みを聞いてくれないなら、もうここで一方的に書き続けるしかないんじゃないかと思いまして。

 

自分の思いを書き続けることによって、もしかしたらこれが多少なりとも治療にも繋がって、今よりもう少し明るく前を向いていけるようになるんじゃないか、そんな事を思っています。

まぁこんなん綺麗事で、ブログを感情の掃き溜め、負の感情のゴミ箱にするってことです。

 

さいあくだね!!!